1995年5月31日にB’zの16枚目のシングルとして発表された「ねがい」。
まずは1995年当時の出来事(1月〜5月)を簡単に箇条書きで振り返ってみたい。
- オウム真理教事件
- プロ野球選手 野茂英雄 大リーグに挑戦
- 兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)
- 地下鉄サリン事件
慌ただしく時代が翻弄されたことがわかる。
このような情勢で発表された「ねがい」。この曲にどのようなメッセージが込められているのか、私見をこれから記したい。
もちろん、歌・絵・本などの芸術作品に含有された意味や意図された表現は一義的に決められるものではない。また、その芸術作品を捉える主体(観客・読者)によってそれらは多様であり、かつ、その同一主体でも時代の変遷とともにそれらは変わることがある。
しかしながら、その芸術作品の持つ意義や表現の意味を、同一主体が時代の変遷とともにどのように受け取ってきたかを記すことまでは否定できないだろう。
ただし、この記事においては、1995年当時と現在2023年2月における著者の「ねがい」を評したい。
まず、1995年当時、受験を翌年春に控えた高校3年生であった。既にB’zのファンだったので、もちろんこの「ねがい」もシングルで購入した。
しかし、残念ながら「ねがい」という楽曲にそれほど当時の感想を覚えていない。東京は電車の手すりが汚いんだなということくらいである。
一方、B’zの曲ではないが、Mr.Childrenの「es」はよく聴いていた。同じく1995年に発表された楽曲である。17歳の田舎に住む少年に「es」は自分の現在の複雑な感情を代弁してくれているかのように思えた。また、将来を重ねるかのように、早く東京に行きたいという欲求を強くしてくれた。
話をB’zに戻したい。
そして次に、現在2023年における「ねがい」を考察したい。
まず、B’zの2023年2月8日午後6時のツイートを引用した著者のツイートを掲載する。
「ねがい」の歌詞をご存じの方なら、なんとなくわかるかも知れない。
残念ながらTwitterにも当該ブログにも歌詞を掲載することはできないので、このようなツイートになった。
この引用ツイートで私がいいたいことはほぼ全てである。
少しだけこれに付け加えて、一文で括るならば、
「他人や社会に文句ばっか言ってないで、自己を省みろ(そして成長して、願いを叶えてみろ)」
である。
スシローの件はSNSでの騒ぎに、当該高校生に対して攻撃することにより、あたかも自分が正義になったかのような錯覚をする。
もちろん、この高校生(ニュースによれば退学したらしい)に非があることは間違いない。そしてそれなりの代償を払ってもらわなければならないことは当然である。
しかしながら、ネット上、つまり「画面」で彼を叩いて悦に浸るという「自慰」をして何が変わるというのだろうか。
そんな自分は果たして本当に「正義」なのだろうか。
また、「現在の自分は過去に成りたかった自分であるのか、そうでないなら、成りたい自分に向かっていけ」と言ってるように思える。
稲葉浩志の歌詞は、「弱い自分を克服して、少しでも強くなっていけ」という一貫したメッセージが含有されていると思う。よって、この「ねがい」にも間違いなくそのメッセージが込められていると私は感じる。
以上、B’zがこのようなメッセージをこの「ねがい」に込めていると思えてならない。